DOS/Vの歴史 - IBM5550からWin95まで

最初はDOS/Vに直接関わる事項だけを入れるつもりが、調べたついでに関係メーカーも入れよう、歴史背景も入れよう、AXも入れよう、とやっているうちに冗長になってしまいました。米IBMの事項は黄色、日本IBMの事項は水色で塗りつぶしたので、それだけ読めば概略は掴めるでしょう。インタビューの情報等、公式の場で発表されていない情報は灰色で塗りつぶしました。(そうでない部分にも私の脚色は多数ありますが。)大変失礼ながら、敬称は省略させていただきます。

年表

年月日は現地時間。リンクは全て当時のメーカー広告の画像です。

1974年12月 米MITS、8ビットコンピューター「Altair 8800」を発売。人気SFドラマ「Star Trek」に登場する惑星の名を付けたそれは、米国で最大の発行部数を誇るホビー雑誌「Popular Electronics」の表紙を飾ると、マニアへ売れに売れていった。米国におけるマイコンブームの始まり。
1976年4月 通産省、ソフトウェア産業の完全自由化を実施。これより、情報処理産業の輸入制限(事実上の対IBM政策)が完全に取り払われた。
1976年8月 日電、8ビットCPU「μCOM-80」の教育用キット「TK-80」を発売。当初の想定になかったアマチュアのマニアに多数売れていき、販売網を拡大。後のPC-8001のヒットに繋がる基礎を築いた。日本におけるマイコンブームの始まり。
1977年 米国にて、AppleCommodoreTandyが8ビットCPUを搭載したパソコンを発表。米国におけるパソコン元年。いずれも日本でも販売されたが、米国ほど人気を得たとは言い難い。
1978年9月 東芝、世界初の日本語ワープロ「JW-10」を発表。翌年2月に出荷。
1979年9月 日電、8ビットパソコン「PC-8001」を発売。価格・性能・品質・拡張性の良さからマイコンブームに乗り、大ヒットする。日本におけるパソコン元年。
1980年6月 米IBM、英文ワープロの「IBM Displaywriter System」を発表。CPUに8086を搭載しており、CP/M-86やMS-DOSといったOSを動かすこともできたが、IBM PCとは異なる事業所・部署が開発しており、アーキテクチャーに互換性はない。日本IBMがマルチステーション5550用に開発した日本語ワープロソフトの「文書プログラム」はDisplaywriterのコードを流用して開発されている。
1980年9月 米IBMのIBU(独立事業体、いわばベンチャー的独立組織)「IBM Entry Level Systems」にて、P.D.Estridge率いるチームが後のIBM PCとなるマシンの開発に着手する。年末には開発チームを150人にまで増員。翌年4月にはマシンがほぼ完成した。
1981年1月 日本IBM 明午慶一郎(当時、藤沢研究所長)が川原裕にOA分野の小型機開発を打診する。同年3月、川原氏はパソコンとワープロの複合端末機「マルチファンクショナルワークステーション」の企画案を携えて米IBM本社を訪れ、承認を得る。これが後の「マルチステーション5550」となる、コードネーム「エポック」の開発の始まりだった。当初からIBM PCとの互換性は重視しておらず、CPUの選定に始まり、あらゆる方面から仕様の検討を行ったようだ。この時、5550の設計責任者を務めたのが、後にDOS/Vの開発を主導することになる丸山力(当時、方式設計課長)であった。
1981年7月 日電、OA分野に向けた16ビットパソコン「N5200モデル05」を発表。通信端末、事務処理、パソコンの3つの機能を柱とした多機能端末機であった。後にIBM5550の発売で再注目され、N5200/05は83年6月までで3万5千台を出荷、84年11月に10万台を突破した。富士通のFACOM9450も同様のコンセプトで登場した。
1981年8月 米IBM、同社初のパソコン「IBM PC」を発売。同じアーキテクチャーをベースに83年に「PC/XT」、84年に「PC/AT」を発売し、同年末にはシリーズ累計出荷台数100万台を超える大ヒットとなった。なお、画面解像度は640x200(MDA)で、8x8ドットの英字フォントであった。
1982年1月 三菱電機、同社初の本格的16ビットパソコン「MULTI 16」を発売。このマシンはフォントデータをフロッピーディスクからシステムメモリに読み込み、必要時に画像メモリへ転送するという、後のDOS/Vに通じる方式をとっていた。IBM5550でも同様の方式を採用したが、両者ともシリーズ第2世代以降の後継機では漢字ROMによる表示方式に切り替えている。画面解像度は640x400(インターレース)。当時のCRT端末で一般化しつつあった英字80桁表示に漢字(16ドットフォント)を表示するのに都合が良かった。
米IBMの工場でゼネラル・マネージャーを務めていた三井信雄(後に常務、専務を経てIBM副社長に就任)が帰国。5550の開発陣に「通信端末機能を付けるべき」と助言し、この時5550の1台3役が決定した。
1982年10月13日 日電、本格的16ビットパソコン「PC-9800シリーズ」を発表。従来機の資産継承と16ビットCPUおよびグラフィックコントローラーによる高速処理をアピールした。画面解像度は640x400。
1982年 この年のパソコン国内出荷台数が前年比約2.98倍の68万3000台になり、国内パソコン市場の急速な立ち上がりを見せた。日本電子工業振興協会(JEIDA)発表。
1983年1月 米Compaq、世界初のIBM PC 100%互換機「Compaq Portable」を発売。海外ではここから徐々に互換機が勢力を伸ばし、シェアでIBM本家を上回るようになる。
日本IBM、アジア・太平洋地域向けのIBM製品の製造・開発拠点となる組織「APTO (Asia / Paciffic Technical Operation)」を設立。米IBMから権限を譲り受ける。
日本IBM 藤沢研究所、企業向けパソコン「マルチステーション5550」の開発を完了。3月にIBU「汎用端末機器事業部」を新設し、5550の開発体制を強化する。
1983年3月15日 日本IBM、5550を正式発表。日本語ワープロ、3270端末、日本語DOSの3つを柱として、オフィスパソコンのジャンルを確立した。画面解像度は明朝体24ドットフォント表示の1066x725ドット(グラフィック画面は1024x768)、16ドットフォント表示の738x525ドット(グラフィック画面は720x512)の2種類をモデル別に用意した。横738ドットという規格は、ワープロ機能の横40字表示で禁則処理を含めると41字が必要だったことに由来する。横(16+2)*41=738ドット、縦(16+5)*25=525ドット。字間・行間に空白を入れることもこだわりの一つで、24ドット機と同じ分の空白を入れた。結局24ドット機が5550シリーズの主流となり、16ドット機はシリーズ後期には消滅した(PS/55 5535で一度だけ復活)。供給体制を整えるため、本体を松下、キーボードをアルプス電気、プリンターを沖電気に製造を委託した。標準構成134万円(FDDx2, モノクロCRT, PRT)。年末までに1万数千台を出荷。
1983年6月27日 家庭用パソコンの共通規格「MSX」が正式に発表される。松下電器がアスキーにパソコン開発の協力を持ちかけたことから企画が上がり、マイクロソフトとソニーを始めとする多くの家電メーカーが賛同した。ワープロとゲーム機の複合を目指したが、世間からは専らゲーム機として見られ、また翌月にファミコンが発売されたことで「高価なゲーム機」になってしまった。数こそ売れたが、値下げ競争が進むにつれ利益が取れないと判断したメーカーは撤退していった。
1984年1月 IBM5550が83年度「日経・年間優秀製品賞」最優秀賞を受賞。
1984年3月 米IBM、家庭向けパソコン「PCjr」を発売。発表時は非常に大きな期待を集めた。しかし、いざデモ機が店頭に出回ると、チープなキーボード、性能の悪さ、IBM PCとの互換性の低さが指摘され、ゲーム機としてもビジネス機としても使えないと評価される。発売後の売れ行きは悪く、キーボード交換キャンペーンや再三の値下げを行うも効果は薄かった。85年3月に生産終了。50万台出荷。
1984年10月29日 日本IBM、家庭用パソコン「JX」(166,000円から)を発表。米IBMのPCjrをベースに5550の日本語処理機能を加えた。藤沢研究所と汎用端末機器事業部の共同開発。BIOSのソースコードや回路図といった仕様の公開、意欲的な価格設定、販売特約店の拡充、数億円を掛けたPRといった努力は空振りとなり失敗。販売店も残留在庫の処理に苦しむことになった。販売目標10万台に対し、3年間で4万台を出荷。1987年に日本IBM創立50周年記念で社員にJX(またはコーヒーカップセットから選択)が贈呈された。なお、DOS/Vの開発に携わった羽島正彦によれば、この時PCjrの日本語化やチューンアップに苦労した経験がDOS/Vの開発で活かされたという。
1985年頃 日本IBMの丸山氏が「米国と同じハードウェア・アーキテクチャー、同じDOSの上で、アプリケーションが作れる環境」、すなわち後のDOS/Vとなる構想を得る。しかし、米IBMのPC/ATで採用されている640x350(EGA)は日本語の表示に不十分。そこで、5550の1024x768と差別化を計りつつ、米国のソフトがそのまま走り、移植が容易で、PC-98を上回る解像度として640x480を提案。PS/2の開発に繋がる。
1985年5月20日 日本IBM、5550用CADソフト「MICRO CADAM」(130万円)を発表。5550や後のPS/55の販売に貢献した。なお、元々のCADAMは4000万円。さらに必要なハード(IBM4361+IBM5080 x4台)を合わせると1億円を超えた。
1985年7月10日 日電、16ビットパソコン「PC-9801VM0/2/4」他を発表。特にPC-9801VM2(415,000円)は発売から1年間で21万台を出荷。これは単一機種の販売記録としては前代未聞であった。
1985年8月28日 ジャストシステム、PC-98用日本語ワープロソフト「一太郎」(58,000円)を発売。
1986年3月 日経パソコンの企業アンケート調査にて、パソコンのシェアでIBM5550が日電N5200や富士通9450を抜いて首位となる。1985年の5550出荷台数は7万台。
1986年4月 日電、米国でPC/AT互換機「APC IV」を発表。日本国外では独自パソコン路線を撤回した。
1986年5月 YHP、日本語表示が可能なPC/AT互換機「Vectra D」(798,000円から)を発表。
1986年9月5日 ロータス日本法人、PC-98に対応した統合表計算ソフト「1-2-3 リリース2J」(98,000円)を発売。一太郎と共にDOS時代の2大パソコンソフトとなる。翌月に5550用を出荷。
1986年10月13日 東芝、ラップトップパソコン「J-3100」(498,000円から)を発表。PC/XTと互換性を保ちつつ独自の日本語表示機能を追加した。CPUは80286、メモリ640KB、FDDx2またはFDDx1+HDD10MBを内蔵し、640x400のプラズマディスプレイを搭載。性能的には当時のデスクトップ型と遜色ない可搬型の登場に、各社は慌てて対抗機種(日電はPC-98LT、富士通はFMR-30、IBMは5535)を投入した。
1987年3月 日電、PC-98シリーズの累計出荷台数が100万台を達成したと発表。対応ソフトは5421本。50万円以下の16ビットパソコンで90%のシェアを獲得。日経パソコンの調査でもIBMを抜いて首位を奪還した。
マイクロソフトを中心とするメーカー十数社で「日本語(漢字) PC/AT互換機の研究会」を結成。PC/AT互換機に日本語処理機能を追加したパソコン(後のAX)についての統一規格の検討が始まる。ただし、既にパソコン市場で一定の顧客を抱えていた日電、日本IBM、富士通は不参加。東芝とセイコーエプソンはちゃっかり名を連ねているが、それぞれAXと関係ないパソコンの開発で後に顧客を獲得している。
日本IBM 大和研究所にて、DOS/Vの最初のプロトタイプが作られる。これはDOS 3.3をベースとしてPS/55 モデル5570で動作するもので、メインメモリが少なくメモリ上にフォントデータを置けなかったため、漢字フォントROMカードと組み合わせてVGAでの日本語表示を実現した。
1987年4月2日 米IBM、PC/ATに置き換わるパソコンの新シリーズ「Personal System/2 (PS/2)」を発表。システムとして大幅なパワーアップを果たした一方で、互換機に対抗するためにIBM PCのオープンアーキテクチャーから一転してクローズドの方針をとる。翌年よりMCAについてはライセンス企業へのみ公開。
1987年4月18日 米政府、86年7月に日米政府間で合意した「日米半導体協定」が遵守されていないと主張。日本製のパソコンなどに対し関税を100%に引き上げる措置を発動した(同年6月に解除)。同年に日電、東芝が輸出モデルについて米国で現地生産を開始。なお、5550は松下電器産業によるOEM、PS/55デスクトップ機は日本IBM藤沢工場で生産されており、どちらも日本製。
1987年4月24日 セイコーエプソン、PC-9801Vシリーズ互換機「PC-286シリーズ」(357,000円から)を正式発表。91年末にはシリーズ累計出荷台数100万台を突破。日本における互換機ブームの走り、とはならなかった。一説には、BIOSのコピー疑惑を巡って騒動・裁判になったことで、98互換機の開発を検討していた他のメーカーは尻込みしてしまったと言われている。
1987年5月12日 日本IBM、マルチステーション5550を一新した新シリーズ「パーソナルシステム/55 (PS/55)」を発表。ただし、この時点では最上位機種のモデル5570-SのみがPS/2をベースとしており、他は5550のマイナーチェンジに留まった。この点は米IBMとは対照的で、アーキテクチャーの一新よりも互換性を重視した、とのことだった。同時にOS/2 J1.0、日本語DOS K3.3を発表。ただしOS/2 J1.0が実際に出荷されたのは翌年3月。
1987年9月7日 日本IBM、同社初のラップトップパソコン「PS/55 モデル5535」(595,000円)を発表。画面解像度はかつての5550の16ドット機と同じ738x525ドットを採用。競合するJ-3100に対して画面解像度で上回ることをアピールしたが、独自解像度の液晶画面を開発することにコストが掛かり、値上がりして価格面で太刀打ちできなかった。ソフトハウスの動きが鈍くサードパーティーの対応ソフトが揃わなかったことも一つの要因になった。
1987年9月14日 プロサイドがPC/ATとPC98のデュアル互換機「P-VS2」を発売。80286搭載で798,000円から。
1987年10月29日 AX協議会が正式に発足。年会費はハードメーカー230万円、周辺機器メーカー60万円、独立系ハード・ソフトメーカー12万円。翌年2月24日に三洋電機がAXパソコン「MBC-17Jシリーズ」(335,000円から)を発売すると、それに続いて各社もAXパソコンを発売。しかし、様々な要因により普及は進まず、4年間で全社合わせても約20万台の出荷に留まった。AX日本語モードの画面解像度は640x480だが、VGAとの互換性はない。英語モードはEGA互換。
1988年4月18日 日本IBM、PS/2完全上位互換のパソコン「PS/55 モデル5550-S/T,5570-T」(820,000円から)を発表。5570-Sではサポートしなかった英語版DOSやOS/2がそのまま動作するようになった。同モデルはリコーにもOEM供給し、この協力関係はPS/55 noteのOEM生産やThinkPadの共同開発まで続く。
1988年夏頃 日本IBMの丸山氏は、DOS/Vの原型が完成しつつあったため三井氏にDOS/Vの採用を呼びかける。しかし、低価格帯パソコンとしてのコンセプトの見極めが必要ということで見送ることになった。JXと5535の失敗もあって、なかなかVGAに踏み出せなかったようだ。
1988年11月 精工舎がPC/ATとPC-98のデュアル互換機を1989年春頃に発売すると発表。川崎製鉄とトムキャットコンピュータとの共同開発。翌年、未発売のまま事業化を断念。
1989年5月15日 日本IBM、PS/55用日本語DOSの新バージョン「IBM DOS バージョン J4.0」(40,000円)を発表。英語版DOSとの互換性を高め、英語モード(PS/2モード)とのソフトウェア切り替えを可能にした。
1989年6月26日 東芝、ノートパソコン「Dynabook (J-3100SS)」(198,000円)を発表。当時としては突出したコストパフォーマンスで話題となり、数千台のバックオーダーを抱え、初年度は12万台の出荷を記録した。
1989年11月29日 日本IBM、個人向けのパソコン「PS/55Z モデル5530Z SX」(398,000円から)を発表。マシンスペックだけでなく、販売ルートの拡充や個人向けの無料の電話窓口「PSサポートデスク」を開設するなど営業にも力を尽くすも、初年度10万台の販売目標に対して1年間の実績は5万台以下。PC98の圧倒的なシェアに太刀打ちすることはできなかった。
1989年末 日本IBMの三井氏が丸山氏に対して、DOS/Vの完成を急ぐよう指示する。
1990年2月22日 米IBM、全世界を対象とするパーソナルシステム製品のエントリーモデル(パソコンの低価格ライン)に関する開発責任を米IBMから日本IBMのAPTOに移管する。後のPS/55noteやThinkPadの開発に繋がる。
1990年4月11日 ASTリサーチジャパン、PC/ATとPC-98のデュアル互換機を開発したと発表。会場には米国大使館の商務参事官が同席し、日本市場の開放に期待を寄せるコメントをする異例の会見であった。BIOSはトムキャットコンピュータ、チップセットは川崎製鉄との共同開発。
1990年4月29日 パソコンショップ「ラオックス ザ・コンピュータ館」に「PSプラザ」開設。日本IBM自らPS/55Zの販売を支援。
1990年10月 日本IBMの三井氏が米IBMにPS/55(およびPS/2)に関わるアーキテクチャーについて情報開示の要望を出し、了承を受け判断を一任される。翌年末からMCAを含むPS/55ハードウェアの仕様が書籍として一般に公開。
1990年10月11日 日本IBM、同社初のVGA表示専用のラップトップパソコン「PS/55 モデル5535-S」(607,000円から)およびVGAでの日本語表示を可能にしたDOS「IBM DOS バージョン J4.0/V」(40,000円)を発表。発表当初はその説明資料から真のコンセプトに気付く人が少なく、マスコミからはPS/55用DOSの亜種だろうということで注目されなかった。
1990年11月5日 DOS J4.0/V(J4.05/V)出荷開始。数日も経たないうちにBBS等にPC/AT互換機での動作報告が上がり始める。日本IBMの開発スタッフもこれを盗み見てはDOS/Vにフィードバックしていた。特に有名なのがJ4.07/Vで追加されたET4000 VGAカードで正常に表示させるためのオプション「$DISP.SYS /HS=LC」。なお、J4.05/Vは単体で4万円。しかも標準では日本語入力に単漢字変換でしか対応しておらず、連文節変換プログラム(IBMMKK)が別売(3万円)だったので、実質7万円のコストが掛かった。さすがにこれは高いと反発を受け、後にIBMMKK付きで28,000円に値下げ。また一部のマニュアルを省略した簡易版が23,000円で発売された。
1990年末 世間の評判からDOS/Vの存在を知ったマイクロソフトの古川享が、日本IBMに対してDOS/Vのソースコード提供を要請する。日本IBMの三井氏はこれを快諾し、マイクロソフトからもDOS/VをパソコンメーカーにOEM供給することになった。なお、同社は既に数億円を掛けて独自にDOS/Vを開発していたが、これをもって内製DOS/Vモジュールの開発を中止した。
1990年11月30日 ジャストシステム、日本語ワープロソフト「一太郎dash」のDOS/V対応版を出荷。
1990年12月20日 日本IBM、「PCオープン・アーキテクチャー推進協議会(OADG)」設立の記者発表を行う。サンケイ会館にて。OADGメンバーに対してテスト環境の提供、マイクロソフトからのDOS/VのOEM供給、PS/55 (MCA, XGAなど)やDOS J4.0/Vに関する技術情報を公開することを発表した。
1990年 この年のパソコン国内出荷台数が206万6000台となり、初めて200万台を超えた。JEIDA発表。なお、91年、92年は景気後退の煽りを受けてか、約170万台に留まった。
1991年1月 パソコンショップ「T-ZONE」にPSプラザ開設。店頭に日本IBMの社員が平日でも1人、休日には4人から5人常駐するという力の入れようであった。その後、93年にかけてDOS/Vパラダイス(ドスパラ)、ソフマップ、STEPなどDOS/Vパソコンの取扱店が増えていった。
1991年1月24日 東芝、VGAボードを搭載したデスクトップパソコン「J-3100ZXモデル171」(215万円)を発売。
1991年1月25日 兵藤嘉彦、日経MIX v.c.分科会にてテキストエディタ「VZIBMV 1.56 DOS/V対応版」差分を公開。
1991年3月 マイクロソフト、日本語Win3.0対応の表計算ソフト「Microsoft Excel Ver.2.1 for Windows 3.0」を発売。
1991年3月11日 OADGの発足を発表。東芝、日立、沖電気工業、キヤノン、三洋、シャープ、ソニー、松下、三菱、リコーが加盟を表明した。富士通はOADGのメンバーに登録するも、既にFMRやFM-TOWNSの顧客を十分に獲得しているため、動向を見守るとして加盟は見送った。年会費は初年度300万円、1年更新200万円。
1991年3月13日 日本IBM、DOS/Vに対応した最初のWindows「日本語Microsoft Windows V3.0」(25,000円)を発表。
1991年3月27日 日本IBM、VGAを搭載したA4サイズノートパソコン「PS/55note 5523-S」(232,000円から)を発表。
1991年4月 日本IBM、DOS J4.0/Vの新バージョン J4.06/V (28,000円)を発売。ESC/P制御コードを使用する他社製プリンターに対応。
1991年4月1日 日本IBM、国内のPCの開発・製造・販売を統括する「パーソナルコンピュータ事業開発本部」を設立。本部長は丸山氏。
1991年5月1日 マイクロソフト、DOS/Vに対応した統合オフィスソフト「Microsoft Works Ver.2.1」を発表。
1991年5月7日 日本IBM、同社初のDOS/V専用デスクトップ機「PS/55Z モデル5510Z」(198,000円から)を発表。最下位モデルは80286 12MHz、RAM 1MB、FDDx2搭載、HDDなし。
1991年6月15日 OADG結成後初めての記者発表。農協会館にて。OADGメンバーの協議で決定された仕様を公開した。
1991年6月26日 マイクロソフト、DOS/Vに対応したCコンパイラー「Microsoft C Ver.6.0」を発表。
1991年7月11日 プロサイド、20万円を切るDOS/Vパソコン「JD1991」(199,000円)を発売。386SX 16MHz、RAM 4MB、FDDx2、40MB HDD搭載。
米Microsoft、MS-DOS 5.0を発表。IBM DOS 5.0との同時発表。1週間で100万本を出荷するという爆発的な普及を見せた。
1991年7月18日 コンパックが日本法人設立の記者発表。翌年からパソコンの低価格競争を推し進める第一人者となる。なお、同社はOADGに加盟していない。同社はOADGを世界標準から外れていると批判し、DOS/Vの名称を用いなかったことを考えると、IBMが主導権を握ることに快く思わなかったのかもしれない。
1991年8月6日 ジャストシステム、日本語ワープロソフト「一太郎 Ver.4」のDOS/V対応版を発売。
1991年夏〜秋頃 株式会社オサムのH. Murata、DOS/Vのテキスト画面を拡張する「DOS/V Hi-Text display driver for SVGA」をパソコン通信上で公開。同社が販売していたナナオ製ビデオカード用のドライバー(1024×768)を800×600までに制限して汎用化したものだったが、フリーソフトということでコアなDOS/Vユーザーの間で普及した。Hi-Textは同社の商品名として商標登録されたため、同類のソフトウェアはV-Textと呼ばれるようになった。
1991年9月11日 三洋電機、MS-DOS 5.0を搭載したAXパソコン「AXAGE NOTE 386SX」を発売。日本で最初に日本語MS-DOS 5.0を搭載したパソコンとなった。
1991年10月 インプレス、DOS/Vパソコン専門誌「DOS/V POWER REPORT」(当時は「ラジオ技術」別冊)を創刊。
1991年10月3日 日電、PC-98シリーズ用の「日本語MS-DOS (Ver5.0)」を11月20日から出荷すると発表。
1991年10月17日 日本IBM、同社初のXGA搭載機「PS/55モデル5530U」、PS/55noteの新モデル、メジャーバージョンアップしたDOS/V「IBM DOS バージョン J5.0/V」(23,000円)を発表。
東芝、VGAを搭載した「Dynabook Vシリーズ」およびオプションでJ-3100とDOS/Vの両方をサポートした「日英MS-DOS V5.0」を発表。
1991年11月15日 ロータス、日本語Win3.0対応の統合表計算ソフト「1-2-3/Windows Release 1.0J」を発売。
1991年12月 ソフトバンク、DOS/V専門誌「DOS/V magazine」を定期刊として創刊。実は日本IBMから依頼されて発行していた。
1991年12月26日 日本IBM、DOS J4.0と互換性があるJ-DOSモードとDOS J5.0/V相当のDOS/Vモードを備えた「IBM DOS バージョン J5.0」(40,000円)を出荷。J-DOSの最後のメジャーバージョンとなった。
1992年3月18日 米IBM、2バイトコード対応版のDOS「DOS 5.02/V」を米国、日本、アジア地域向けに発表。PS/2標準の米国英語101キーボードとプリンターに対応。
日本IBM、DOS J5.0/Vの新バージョン J5.02/V (23,000円)を発売。
1992年4月 コンパック、日本市場参入後初めてのパソコン(5機種25モデル)を発売。米MicrosoftのMS-DOS 5をベースに、IBM DOS J5.0/V相当の日本語処理機能を自社で開発・追加した「Compaq MS-DOS 5.0J/V」が付属。Windows 3.0は日本IBM版を別途購入する必要がある。
OADG、アプリケーションソフトの動作確認施設「アプリケーション・テスト・サイト」を開設。翌月からアプリケーション製品の情報をまとめた「OADGカタログ」を定期発行。
1992年7月16日 デジタルリサーチ、DOS/V互換DOS「DR DOS リリース 6.0/V」を発表。一部のショップでフライング気味に単体販売された後、バンドルのみでの販売となったが、実際にバンドルした機種が存在したのか不明。同社は90年にもAX用のDR DOS 5.0を発表している。
1992年7月29日 セイコーエプソン、OADGメンバーへの加盟を表明。
1992年10月1日 コンパック、DOS/V機「ProLineaシリーズ」(128,000円から)を発表。その後、パソコンメーカー各社が相次いで値下げを発表したことから「コンパックショック」と噂された。
1992年10月20日 日本IBM、DOS/V機の新シリーズ「PS/V」および「ThinkPad」を発表。PS/Vは主要モデルでATバスやS3社などサードパーティー製のグラフィックチップを搭載し、互換機市場へ歩み寄った。
1992年10月26日 日電、PC-98シリーズの新機種「PC-9821 model S1, S2」(318,000円から)を発表。
1992年11月 日本IBM、ATバス搭載機に対応したOS/2 J2.00.1をリリース。事実上のIBM互換機対応。
1993年1月22日 デルコンピュータ、DOS/Vパソコンの直接販売を開始。(333s/L: 98,000円から)
1993年2月28日 日本IBM、DOS/Vでの24ドットフォントによる表示や表示文字数の拡張を可能にするユーティリティーソフト「IBM DOS/V Extension V1.0」(7,000円)を発表。フリーソフトから広まったV-TextがIBM公認の仕様になった。
1993年5月18日 マイクロソフトがWindows 3.1日本語版(19,800円から)を発売(日電からは5月12日発売)。英語版の発売から1年あまりが経っていた。日本語TrueTypeフォントの実装に時間が掛かったと言われているが、PC98への移植作業で遅れたという噂も立った。
日本IBM、「日本語Microsoft Windows バージョン3.1」(21,800円)を発表。6月出荷。Win3.1が発売されるまでMicrosoftがソースコードを供給しなかったため、IBM含む他メーカーはやや遅れての発売になったと噂された。
1993年6月 東芝、DOS/V標準パソコン「Dynabook V486シリーズ」(MS-DOS 5.0/V搭載)発売。それまではJ-3100アーキテクチャーが標準で、DOS/Vはソフトウェア切替で対応していた。
1993年10月18日 富士通、DOS/V機の「FMVシリーズ」を発売。同日をもってOADGに加盟した。
1993年12月10日 日本IBM、DOS/Vの新バージョン「PC DOS バージョン J6.1/V」(23,000円)を発売。
マイクロソフト、DOS/Vの新バージョン「MS-DOS 6.2/V Upgrade」(12,800円)を発売。同社としては最初で最後のMS-DOS単体パッケージとなった。
1993年12月17日 東京国際見本市会場にて見本市「DOS/V EXPO Tokyo」第1回を3日間開催。ソフトバンク主催、OADG後援。
1994年1月11日 セイコーエプソン、IBM互換機を国内販売するため「エプソンダイレクト」を設立。同社よりDOS/V機「Endeavor ATシリーズ」の直接販売を開始。(AT-1000: 98,000円から)
1994年7月11日 日電、PCIバスを搭載したPC-98新機種「PC-9821Xa」(640,000円)を発表。
1994年10月 エプソン販売、DOS/V機の「PCVシリーズ」を発表。エプソン、PCVシリーズ用の98エミュレーター「98/V」を発表。DOS/V上でPC-98用DOSアプリケーションを動作させるソフトであった。この先、EPSON PCシリーズは終息に向かう。
1994年11月 マイクロソフト、「Windows 95 日本語版 ベータ1」を提供開始。
1995年7月6日 日電、米Packard Bellと提携関係を結ぶ。翌年10月に「パッカードベルNECジャパン」を設立し、国内でPC/AT互換機の販売を始める。しかし国内外とも事業は奮わず、縮小の一途をたどった。
1995年8月2日 日本IBM、DOS/Vの新バージョン「PC DOS J7.0/V」(14,800円)を発表。実質、最後のメジャーバージョンアップになった。
1995年11月1日 日本電子工業振興協会、上半期(4-9月)のパソコン国内出荷台数が前年同期比68%増の243万3000台になったと発表。
1995年11月23日 マイクロソフト、Windows 95日本語版を発売。雑誌や新聞などによる前評判、前日から行われた発売記念イベントなど、かつてない異様な盛り上がりを見せた。
1996年4月18日 IDCジャパン、Windows 95日本語版出荷本数が380万本に達したと発表。内訳は、プリインストールが190万本、無償アップグレードが90万本、パッケージ単体が100万本。
1997年4月23日 マルチメディア総合研究所、1996年度の国内パソコン出荷状況を発表。PC/AT互換機のシェアが54.5%となり、初めて半数を超えた。(PC-98は35.5%、Macintoshは10.1%)
1997年9月24日 日電、PC/AT互換機「PC98-NXシリーズ」を発表。幕張メッセで開催された見本市「World PC Expo 97」にて。同年10月23日に発売。PC-98は終息に向かうことになった。
1998年6月10日 日本IBM、DOS/Vの最終製品「PC DOS 2000 日本語版」を発表。2001年1月にサポート終了。2005年11月にディスケット版の販売を終了。CD版の販売は継続。
2001年12月31日 マイクロソフト、MS-DOS全バージョンのサポートを終了。
2010年10月22日 マイクロソフト、Windows XP搭載パソコンの販売終了を告知。Windows Vista以降はDOS/Vのモジュールを含まないので、ソフトウェアとしてのDOS/Vは完全に消滅したことになる。

参考文献

内容の半分は『日本IBMのパソコン新戦略 DOS/Vの衝撃波』(戸塚正康 著、日本工業新聞社 発行)がベースになっています。DOS/V登場後の歴史をまとめている資料はWikipediaを含め多く見かけますが、DOS/V誕生までの経緯を記した資料はあまりありません。本書はDOS/Vの登場経緯について、5550や日本IBMの事業編成、競合メーカーの動きまで絡めて記した、貴重な資料だと思います。主にこれをベースに、月刊アスキーのアーカイブや日経テレコンで調べた情報で補完しています。


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